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大坂冬の陣おける豊臣恩顧の大名の身の振り方 [関ケ原の合戦大阪の陣]

大坂の陣において、全ての大名が家康に従っている。
何せ、豊臣恩顧の大名においても、加藤清正、中村一氏、堀尾義晴、浅野幸長は亡くなっており、存命の武将達も、家督を息子に譲ったり、徳川政権下で、領国経営が軌道に乗ってきた所であった。
戦乱の世は終わり、戦乱により命や領土を失うリスクは無くなり、徳川に逆らっているとの誤解を受ける事が無い様に気を配れば、領地と大名の地位は安泰でいられるのである。

豊臣恩顧の大名の筆頭であった福島正則でさえ、
秀頼の援護依頼の使者との面会を拒んでおり、親書をも受け取らなかった。

それでも、福島正則は加藤嘉明、平野長泰、黒田長政らと共に、江戸留守居役を名目本多正純から江戸留め置きを申し渡された。大坂の陣では、秀頼から遠ざけられていたのである。
家康は、万一に備え、彼らを信用していなかった。

その万一とは?

現時点では、大坂方の敗北は ほぼ確定的で、大坂城に入る事は大名の地位や領国など、一切のものを捨てる事になる為、先ずは、その様な真似はしないと思われた。

しかし、家康は、大坂の陣の時に 齢七十三歳であった。
当時の寿命からすると、かなりの高齢であり、いつ病に伏したり、お迎えが来てもおかしくない年齢である。

実際に、方広寺鐘銘事件をみても、大坂方に因縁を付けた様なもので、〝鳴く迄 待とう〟の家康とも思えない、強引で事を焦ったやり方をしている。

年齢的に焦りがあったと思われる。戦の最中に家康が急に亡くなった場合は事情が大きく変わってくる。それまで、家康には渋々服従していた大名も、この期に、次々と反旗を翻さないとも限らない。

この場合に備えて危険分子は遠ざけておく必要性があった。この、万一の家康の病、及び死亡の場合に賭けて、豊臣方にも布石を打った大名がいた。

関ヶ原の戦いで、東西両軍に二股をかけ、戦わずして領国を四分の一にされた毛利である。しかも、その後、泰平の世に移り変わろうとしているため、領地回復の機会は、確率は低いとはいえ、東西の手が切れるその時しかないからである。

毛利は、大坂の陣において、基本的には家康に従いながらも、密かに 関ヶ原の戦い 同様の二股作戦に出るのである。

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