SSブログ

大坂の陣終結 [関ケ原の合戦大阪の陣]

大坂冬の陣は、真田幸村の奮戦も及ばず終結し、大坂方不利となる条件で講和が結ばれた。
講和の条件にあった、大坂城の外堀だけでなく、徳川方によって内堀も埋めたてられて、大坂城は 丸裸にされた。

家康は、いよいよ総仕上げに 掛かった。
大坂方が壊れた塀を直し、埋められた堀を掘り返した事を大坂方謀反の意ありて、戦に備えていると言い掛かりをつけて、秀頼に国替えを迫った。

大坂方は、これを拒絶して、大坂夏の陣が勃発し豊臣滅亡へと動いていく。

こうなると、豊臣の敗北、滅亡は疑う余地が無くなり、さすがの毛利も、冬の陣の時の様に日和見という訳にはいかず、夏の陣は、秀就と秀元が出陣して、病を押して輝元自らも戦に出向いている。豊臣政権下での執権に返り咲く夢は消えるどころか、旧主豊臣に刃を向け、その滅亡を見届ける羽目になったのである。

真長宗我部盛親は、関ヶ原の戦いで土佐一国を失っており、その奪回をかけて、全国に散らばっていた旧臣を集めて大阪城を発ち、八尾にて藤堂隊と激突した。

藤堂高刑の別働隊の左翼には、土佐領主時代の家老であった桑名弥次兵衛がおり、くしくも、かつての主従の対決となった。     

関ヶ原の戦い後、盛親の家臣のうち、弥次兵衛ほか十九名が藤堂家に召し抱えられており、皮肉にも弥次兵衛はかつての主君の為に、密かに仕送りをしていた間柄でもあった。事情を知らぬかつての家臣が恩知らずと罵るものの、弥次兵衛は覚悟を決めており討ち取られている。

 長宗我部隊は、藤堂隊を潰走させ、藤堂高刑の首を取る戦果を上げるものの、局地的な勝利にとどまり、同日の戦いにて、木村重成は井伊直孝隊と奮戦の末、敵将、庵原助右衛門の槍にて命を落とし、後藤又兵衛も真田・毛利軍と合流する予定を濃霧に阻まれ、道明寺・小松山で単独で東軍の水野・伊達・本多勢に挑むも、敵の銃弾に倒れるなど、秀頼のもとには、味方の武将の討ち死の報がもたらされる。

その直後、道明寺の戦いにて、大坂方は抵抗をみせるも、薄田兼相 が戦死、後藤隊・薄田隊の残党が誉田村に後退し毛利隊に吸収され、北川宣勝の救援に向かっていた真田勢の到着を待ち合流する。

翌日の五月七日、天王寺にて東西決戦が行われたが、この時すでに、四月末に樫井の戦いで戦死している塙団右衛門、木村重成、後藤又兵衛、薄田兼相等の大将級の武将を欠いている。

真田幸村は、自ら緋縅の鎧を纏い、具足・旗指物・陣幕に至るまで朱で統一した、〝赤備え〟軍団を率いて茶臼山に陣を張っていた。毛利勝永が天王寺の南門側に陣取り、後方に大野治長の本隊が、別働隊で明石全登、篠山麓に北川宜勝、岡山口に大野治房と御宿政友を布陣させ、秀頼の大阪城よりの出陣を待つ形を取っていた。

秀頼の出陣が遅滞している時、家康の大軍勢が天王寺口に進軍しているとの報がもたらされていた。東軍は家康の軍令に背いて先駆けを逸る松平忠直隊を毛利隊が衝き、隊が乱れ隙に真田隊が家康目指して突進し、家康の手薄となった後備につけ込もうとした。 

真田幸村は、追い詰められた大坂方の活路見出す為に、〝家康の首〟を取る事のみを考えた戦いを展開し、家康をあと一歩のところまで追い詰めるも、奮戦の末に力尽き、戦場に散っている。

大坂方は、牢人衆が奮戦するも、秀頼の出陣はいたらず、秀頼直衛隊である七手組ほか豊臣譜代の家臣による後陣の戦意・戦力が見劣りし、勝負所に一気投入する事が出来ず、敗北が決定し、ついにその日の夕刻には大阪城が落ちたのである。

秀頼と淀殿の助命嘆願を、秀頼に嫁いでいた家康の孫千姫に託すも、受け入れられる筈もなく、切腹の上意が伝えられ、五月八日の正午ごろ、秀頼・淀殿は自害、大野治長・毛利勝永・真田大助・大蔵卿局らも山里廓の炎と共に消えている。

<a href="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/"><img src="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/img/gifu_town88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 岐阜(市)情報へ" /></a><br /><a href="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/">にほんブログ村</a>


トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。