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埋れ火 [関ケ原の合戦大阪の陣]

大阪城が落城し、生き残った大坂方の諸将は落城の際、逃亡を謀ったものの、幕府の執拗な追跡により、その多くは捕らわれている。

長宗我部盛親は、京街道に逃れ、山城国八幡付近の芦原に潜んでいたところを蜂須賀家の家臣、長坂三郎左衛門に捕えられ、市中引き回しの上、斬首されている。命乞いまでして、打倒家康の機を探ったものの果たせず、六条河原の露と消えたのである。

毛利輝元により、密かに大阪城に送り込まれた、佐野道可こと内藤元盛も逃亡するも、毛利一門である事が幕府に露見して、幕命を受けた毛利の捜索により、京にて捕えられ柳生宗矩の尋問を受け毛利の関与を厳しく追及されている。しかし元盛は豊臣への恩義を果たすため、浪人となったうえでの個人的な行動であると、主家の関与を否定し続け、毛利家の安泰を図った。

元盛の二人の息子たちも、父の行動を知らなかったと言い張ったため、関ヶ原の戦後処理に不満を持った毛利家臣個人による行動として処理され、山城国鷲巣寺にて切腹させられ、一旦事は収まっている。

ここからの、輝元の行動が、毛利が大坂城に元盛を送ったという西軍関与をはっきりと物語っている。まずは、輝元が一旦元盛の息子たちに家督相続の許しを出している事で、元盛が個人の意思で浪人として入城していたのなら、輝元が家督相続をさせるのは可笑しな話である。

その後、輝元は一転して二人を周防龍谷寺で自害させている。その後何らかの疑惑が生じた事で、幕府の追及を恐れて、詳細を知る息子たちを始末したものと思われる。

輝元は、領地回復の夢破れ、萩城内の隠居所にて生涯を閉じている。執権の夢を見て関ヶ原で西軍の大将になり、領国奪回を謀り大坂の陣で密かに大坂方に一手を打つも、どちらも実を結ばず、不完全燃焼のまま、73歳でこの世を去ったのである。

その、輝元のくすぶった心は、長州・毛利の遺恨として、幕末まで脈々と受け継がれる。また、土佐の地でも、長宗我部の旧臣は、山内家臣に下士として虐げられながらも、盛親の志を幕末まで、伝えていったのである。        

                                   完

                  次は 別角度から戦国ブログに挑戦します[次項有]

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