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南宮山と松尾山 [関ケ原の合戦大阪の陣]

毛利勢は、まず安国寺恵瓊に交渉に当たらせ、毛利輝元を西軍の大将として、西軍勝利の際には豊臣政権下において執権の座に就く腹づもりであった。

小山評定において、豊臣恩顧の大名のほとんどが、家康に付いた事、岐阜城が東軍の手により陥落した事、
五奉行の1人、増田長盛の家康内応文書、大津城の京極高次が東軍に寝返った事により、高次の妻・お初の姉である淀殿が秀頼の出陣を見合わせた事等により、西軍の旗色が悪くなると見るや、黒田長政、藤堂高虎と親交が深い吉川広家を内密に交渉に当たらせた。

そして、毛利の家康に反抗する事が無い旨を伝えたうえで、関ヶ原本戦を傍観する事を条件に、領国安堵・毛利安泰の血判書を取り交わしている。

この場合、毛利輝元を西軍の大将に担ぎ出した首謀者として安国寺恵瓊は一人で責任を負う事になる。
恵瓊は、長束正家と共に、南宮山の岡ヶ鼻に別働隊の最後尾として布陣していた。

長束正家は、豊臣政権下において、五奉行時代から、大老・毛利輝元の連絡役としての結びつきがあった為、毛利に同調する形で南宮山後備に陣を敷いたと思われるが、秀元に出陣の催促をするも、
大阪にて動く気配が感じられない輝元に不安を抱き、強硬に動く事はできなかった。

恵瓊も、三成挙兵当初は、前面に出て輝元を総大将にする事に積極的に動いたが、西軍不利の情報が色々と伝えられた事で、毛利の主導権を吉川広家に移して、東軍内応の方向で進められていた。

南宮山において、広家を先鋒に、恵瓊を最後尾に布陣させた時点で、毛利軍のその動向は戦前より想像し得るものであった。毛利の方針が変わった以上、恵瓊としては、秀元に出陣催促をするも、強行突破はできず、
傍観せざるを得なかったのである。

実際、大谷吉継は、南宮山の布陣を見た時、毛利の内応を察知していた様である。
三成も、兵馬の上り下りもままならない急峻な山への布陣に疑念を持っていた様である。

南宮山に何の動きもないのを見て取った家康は、本陣を前に進め、南宮山に備えていた後衛部隊、池田輝政・
山内一豊・浅野幸長・有馬豊氏の陣を前に出させている。
この、後衛部隊の顔ぶれを見ても、娘婿の池田輝政や律儀な山内一豊を配している等、家康も、最初は
南宮山の内応を確信してはいなかったと推測できるが、石田陣所からの参戦の合図の狼煙にも、動かぬ
事に安心したのであろう。

松尾山においても、小早川勢が、南宮山の動かぬ状況と本陣・後衛部隊の前進する模様が遠望でき、毛利勢の家康内応を確信しつつあった。
その時、家康軍と思われる旗印が松尾山麓に向って来て、山に向けて射撃しているような硝煙が確認できた。

秀秋は驚いたというよりは、毛利勢の内応を確信して、毛利の一員として、家康に付いて行動を起こす踏ん切りがついた時にタイミングよく、催促ともいえる合図がなされた格好になったのである。

「家康殿にお味方する。目指すは、大谷吉継の陣なり」
秀秋の声が響いた。

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