SSブログ

南宮山動かず その2 [関ケ原の合戦大阪の陣]

松尾山の小早川勢も、吉川広家が家康に内応して、毛利を動かさない約束をしている情報は、黒田長政から聞かされている。
しかし、毛利秀元が同じ南宮山の背後に陣取っている、安国寺恵瓊や長束正家に説得されて山を下れば、
さすがの広家も止められないというケースも考えられる。

安国寺恵瓊や長束正家は、もし、毛利が中立を保って家康が勝利した時、自身の命が危うくなる立場にある為、必死の説得をすると考えられる。

実際、吉川広家は不戦を貫くという奇妙な戦いを強いられる。広家自体は、小早川秀秋が松尾山を下りて家康と戦う事態になった場合以外は、南宮山から兵を下りさせないつもりでいた。

合戦開始から激しい戦いが繰り広げられ、宇喜多隊・大谷隊・石田隊・小西隊の活躍でやや西軍が押し気味で戦いを進めている。機が熟したとばかりに、石田三成が陣をしく笹尾山から狼煙があげられたのが確認できた。

狼煙の合図に、毛利宗家の軍を率いる毛利秀元は腰を上げて戦闘態勢に入ろうとしていた。
安国寺恵瓊、長束正家からも使者を通して再三に亘る出陣の要請が来ている。
秀元が先鋒の吉川広家に出陣の催促をするも、「出陣の判断はお任せあれ」と言って首を縦に振らない。

広家にとって、出陣の機が熟す時とは、秀秋が家康に向かって山を下りた時しか考えられない。
それ以外は、毛利の長老として、毛利の存続を図る為、一兵たりとも動かさぬようにするのが
任と心得ているのである。

秀元は、安国寺恵瓊、長束正家からの使者に、「今、弁当を使わせている」という、俗に「から弁当」いわれている苦し紛れの言い訳をしていたといわれるが、さすがに立ち行かなくなり、自らも広家や福原弘俊の陣所に催促に赴いている。その時、弘俊から、事のいきさつを聞かされて愕然とする。

秀元は、剛勇で名を馳せた真直ぐな性格の若者であったと言われており、戦意は充分に持って布陣していたのである。実は、秀元は知行地をめぐり広家とは対立していた事もあり、強権発動して山を下りる事も考えられなくはなかったのであるが、大阪の輝元からは、「広家に従って、毛利家の為 尽くすように」と言われていた為、強行突破して動く事はなかったのである。

安国寺恵瓊も長束正家も、毛利本隊が動かない事には、どうする事も出来ず、催足を繰り返すしかなかった。

松尾山からは、関ヶ原の盆地を挟んだ東の端に、南宮山を望む事ができた。山を埋め尽くしている戦旗は、戦局や陣営の動きを知る事ができる。
しかし、使者が動くと思われる位のわずかな動きの他には、大きな動きは見られない。

「やはり侍従殿は、動かないつもりのようであるな」と、秀秋は、ほっとしたように側近の平岡頼勝と稲葉正成に
言った。毛利の宗家も、黒田長政が仕組んだ東軍への内応の手筈通りの傍観に徹しているようである。

秀秋も、家臣たちも、腹は家康に味方することに決まっていたが、裏切りという行為に踏み切る後ろめたさが、山を下りるのを踏みとどまらせていたから、この毛利の行動は心強く感じられたのである。

<a href="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/"><img src="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/img/gifu_town88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 岐阜(市)情報へ" /></a><br /><a href="https://localchubu.blogmura.com/gifu_town/">にほんブログ村</a>


トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

トラックバック 0

南宮山動かず その1南宮山と松尾山 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。