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関ヶ原の戦い、傍観の代償 [関ケ原の合戦大阪の陣]

家康は、関ヶ原の戦いで毛利軍を動かさなければ、輝元の無罪と所領安堵をすると言う、吉川広家や毛利輝元との約束を反古にして、毛利の全ての所領を没収すると通達してきた。

広家の嘆願により、自身に与えられる予定の周防・長門の二ヵ国が輝元と六歳の嫡男、秀就に封じられたのである。

こうして、毛利百二十万五千石は周防・長門三十六万九千石に激減され、広家も出雲富田四十四万二千石の大名から周防岩国三万石の家老に格下げの格好となってしまったのである。

以前、大河ドラマ、天地人にて、関ヶ原の戦いの後、上杉家が、百二十万石から四分の三もの領地削封の為に、多数の家臣を抱えて貧困に苦しむ様が描かれていたが、毛利家も、全く同じ状況に直面している。

石高が減る事による減収だけでなく、実は、毛利八ヵ国のうち、没収された六ヵ国の年貢米は、既に  収納しているので、その分を新領主に返済せねばならないのであった。

検地を行い、貢租地を拡張して、五十三万九千石を弾き出した。

あとは、新田開発、新しい産業の奨励であるが、結局は、増税に頼らざるを得ず、四公六民だったのが、七公三民に迄に急増して、領民の不満が爆発し、周防山代一揆が勃発したのである。

更に、江戸城、駿府城などの普請の労役を課せられて、財政はさらに逼迫した。

上杉や毛利は、大幅に減封されたが、少なくとも大名には踏み留まれたのに対して、戦わずして、二十四万石の全てを没収された長曽我部盛親は牢人となり、厳しい監視の下、法体姿となり寺子屋の師匠に身を窶していた。

四国の雄、元親から家督を継いでわずか一年で、牢人となり苦渋を味わう事になったのである。

安国寺恵瓊は既に、斬首され、領国没収、長束 正家は水口城篭城の後に自害し、領国没収と言う様に、南宮山の傍観軍には、悉く、厳しい処遇が待っていたのである。

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