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五人衆 大坂城入城 [関ケ原の合戦大阪の陣]

東西の手が切れると、秀頼は、太閤の残した金銀を振る舞い、各地に潜んでいた牢人達を集め始めた。徳川政権下で地位と領国が確保されている大名たちは、一人として招集に応じなかったのに対し、牢人達は、続々と入城する。彼らは、地位も領国や奉公先も失い、それを挽回する機会も無く、15年の歳月を過ごして来たのである。

先ず、最初は、白地に花クルスの旗を翻して、八千のキリシタン武士を引き連れて入城した明石全登である。関ヶ原の戦いでは宇喜田秀家隊の先鋒として、福島正則と激闘を繰り広げている。黒田長政の説得により戦場を離脱し、黒田領に匿われた。彼は、徳川がキリシタン弾圧に動いた事に反発して、入城を決めている。

毛利勝永は、父である森勝信が秀吉に気に入られ、毛利姓を賜った経緯があり、、関ヶ原の戦いでは、父子共に西軍に加わり、伏見城を攻撃している。戦後、加藤清正、次いで土佐にて山内一豊預かりの身になっていたが、商人を装った秀頼の家臣、家里伊賀守により大坂召募の密旨を受け、大坂に赴いている。

その、土佐の旧領主であった長宗我部盛親は、京の相国寺門前に主従六人で、幕府側の役人の監視のもと、蟄居させられていた。盛親には、豊臣から密かに仕送りがされており、各地に潜んでいた五千もの旧臣を引き連れて、乗り込んでいる。

真田幸村も、九度山にて浅野長晟の監視下におかれ、蟄居させられていたが、秀頼の使者により大坂入城の誘いと共に、黄金二百枚と銀三十貫が届けられた。幸村は、武将として待ちに待った活躍の場を得て、意気揚々と大坂に向かう事になった。

後藤又兵衛は、黒田長政の家臣で、大隈一万六千石を預かり、主君を超える程の天下の名士として名を馳せていたが、それが二人の間の確執を深めており、長政の父如水が亡くなって仲を執り成す者が居なくなり決別している。その後、細川忠興に身を寄せ様としたが長政が横槍によりなせず、その後の仕官も長政による奉公構えにより叶わなかった。六条河原に乞食小屋に居たところ、大坂方の招きを受けて入場したのである。

この五人衆の他には、又兵衛同様、加藤嘉明の奉公構えに祟られ、諸国を流浪した後、京都妙心寺の雲水となっていた塙団右衛門、そして、関ヶ原の西軍関係では、父大谷吉継と共に関ヶ原に参戦した後、諸国を流浪していた大谷大学、大谷隊で戦い、討ち死にした平塚為広の遺子である平塚左馬助、関ヶ原で大垣城を守衛した後、若狭・播磨にて閉居していた氏家行広、東軍の父と分かれて西軍に与した仙石秀範は、戦後、長宗我部盛親と同様に京にて手習いの師匠をしていた。これに、木村重成、大野治長・治房、薄田兼相をはじめ、秀頼直衛隊である七手組等の在城の武将や豊臣家臣が加わり、総勢十万に膨れ上がったのである。/p>

牢人の中には、幕府より招かれたり、関東方への従軍の誘いが有った者も多かった様であったが、徳川の大軍勢のなかで、小さな功をあげて小禄に預かるより、豊臣方にて一軍の将として迎えられ、大きな功名と武名を上げ得る方を選んだ者が殆んどである。

それは、武士の本懐を遂げれるという反面、破滅への道であった事は承知の上の選択であった。

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