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浅井三姉妹の 関ヶ原 ―お初の功績 [番外編]

丁度、大河ドラマ 『江~姫たちの戦国』にて、〝関ヶ原の戦い〟のシーンが終了して 石田三成が捕縛され 六条河原にて散って ひとつのヤマ場が終わりました。浅井三姉妹は それぞれの 関ヶ原を 戦い ました。

昨日、〝小谷城戦国歴史館〟を訪れた時、名人級の解説にて来館者を釘づけにしている案内の方も、「三姉妹の中で もっとも秀でており、男に生まれていたら 名を残していたであろう」と言われていたのが 次女 お初 でした。

お初には 子供が出来ませんでしたが 徳川秀忠と江の子を養女に迎え、夫高次と側室の子を結婚させたり、公家からも養子縁組をして存続を計った様です。後には、江と豊臣秀勝の娘の完子の子孫が天皇家と縁戚関係となります。 

「守護大名として唯一 京極家が明治維新まで続く 礎を作った点で 卓越した才を発揮した」と言うお話でした。

しかし、もうひとつ、京極家が存続したキーポイントは ずばり 〝関ヶ原の戦い〟での身の振り方です。

京極家は 浅井家以前の北近江の領主であり 守護大名として名家として知られておりましたが、父孝吉が足利義昭に仕えており 織田信長と対立した後に出家し、高次に至っては 明智光秀が本能寺の変を起こした際には、光秀方についてしまい、秀吉の長浜城を攻撃した為、美濃・若狭に逃れました。秀吉の側室となった姉龍子の助命嘆願により許され、秀吉に仕える事になりました。

この様に、京極家は 戦国の世にて 与する側の選択を誤り、没落の一途を辿っており、その後、龍子 のお蔭で 大名に復帰し 秀吉の養女となっていた お初のお蔭で、大津6万石まで加増された為、七光りによる〝蛍大名〟 と揶揄されました。

〝関ヶ原の戦い〟でも 京極家は当初 石田方についています。故秀吉の恩に報いる為と言う理由から仕方がなかったとはいえ、また 敗軍の将となる所だったのでした。

私は、京極高次が 家康方に寝返り、大津城に立て籠もったのは、お初の助言があったからではないか? もっと言えば、京極家存続・発展の為に そうさせたのだと考えています。

小山評定にて 豊臣恩顧の大名の多くが家康方に付き、岐阜城が落城した情報により 家康方が有利と判断したのは勿論、お初は次の様に判断したのではないのでしょうか?

① 三成方 について家康を攻撃しても、例え成功しても 多くの西軍大名の中で 名だたる功績を挙げれるかが 疑問であるのに対して、東に寝返って大津に籠城すれば 史実に見る様に 三成方に大きな痛手を与え、家康勝利に確実に大きな貢献ができるのです。世には、秀忠の遅参が言われますが、三成方の主戦派の毛利元長、戦国最強とも言われる無敗の武将立花宗茂が 大津城攻めに加わらざるを得なかった為、足止めされ 関ヶ原に間に合わなかったのです。

② 大坂の西の丸には、西軍の総大将毛利輝元が秀頼や淀殿の傍らにおり、状況によれば、秀頼公を奉じての参戦も致し方なくなります。そうなると、この戦は徳川と石田の私戦でなく、豊臣・徳川の争いとなります。大坂から関ヶ原に向かう時に 大津が敵に寝返ると秀頼公の身に危険が及ぶ事になり、淀殿は進軍させる事は敬遠し、大坂に留まる事が予想されます。これは、秀頼公を奉じて出陣する事で 一旦家康についた豊臣恩顧の大名を味方につけ様とする石田方 にとっては打撃となります。

また、豊臣・徳川の戦いを避ける事が出来、つまり、姉妹の戦いを避ける事になります。そして、たとえ徳川が勝利しても、秀頼公・姉 淀殿が処罰される事もなくなると考えられるのです。

この様に、夫の高次の出世・京極家の存続・繁栄を主眼に考えながら、姉や妹と直接戦わない方法を考えられるのは、それまでの高次の経歴を見る限り、お初 しか いないのではないかと思うのです。

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