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筋書き通りに運んだ 関ヶ原の戦い前哨戦―岐阜城陥落― [番外編]

1600年-関ヶ原の戦い-の前に、家康方に付いた 福島正則、池田輝政軍、浅野幸長など
豊臣恩顧の大名により岐阜城攻めが行なわれました。

あの信長が築いた岐阜城が簡単に陥落した事で、東軍に寝返る者が続出し、
形勢は東軍へと一気に傾きました。

実は、戦いの前から、弱冠19歳の岐阜城主秀信(織田信長の嫡孫)に
重臣の木造具政(こずくりともまさ)や百々綱家(どどつないえ)と
浄土真宗 [善行寺]の住職である円清と、家康や福島正則等の重臣と
家康側に付く事で手筈が整っていた様です。

秀信に、家康方に付く様に進言したものの、石田三成と密約が出来ており、
秀信が三法師と云われた頃から、清州会議に代表される様に秀吉にとり立てられた
恩義に忠実であった為、西軍「石田三成」に加わる事に決断は固かった様です。

 この織田秀信の決断で 美濃の武将の殆んどは西軍側に荷担する事になりました。


善行寺の円清和尚は 以前から家康と親交深く、家康を高く評価し、世の趨勢は
徳川に移っている事も感じていました。
  
又、秀信にも信頼されており、岐阜城攻撃の前夜の軍議にも出ており、  
円清和尚は会議後、直ぐに池田輝政に岐阜城側の作戦内容―軍議では道も険しく
容易に近付かないと判断した為 城の裏手には兵が少ない事を知らせました。

岐阜市 善行寺

017.JPG

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それと共に、岐阜城が陥落しても、秀信の命は奪わず、同じ浄土真宗で織田家のゆかりが深い
上加納村の浄泉坊(現在の円徳寺)にて出家させると云う話ができていたのです。

戦は、叔父信長の桶狭間の戦いに倣い 野戦を選択した織田秀信は、「米野の戦い」「竹鼻城攻撃」
「乱闘橋の闘い」の敗戦により、岐阜城へ逃げ帰り、籠城戦を強いられました。


福島正則軍が正面の総門、 浅野幸長が「瑞龍寺砦」、 池田輝政が城の北側から攻撃と
三手に別れて攻撃を行い、本丸に追い詰め火を放ちました。

落城の際、城に残った女たちは、次々とこの御手洗池に身を投げたと云われます。

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城内で自刃した武将達の血痕が付着した、城の床板は、織田家の菩提寺である
崇福寺の天井(血天井)板として使う事で、供養されました。

現在も、崇福寺に拝観すると、黒い染みになった血がついた 血天井を見る事が出来ます。


自害しようとした秀信は、手筈通りの説得により降伏し、助命されて、小姓十四人を伴い
上加納村の浄泉坊(現 円徳寺)に入り、武具を外し、住職を導師として剃髪したうえで
高野山におくられました。

岐阜市 円徳寺

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円徳寺に残る 秀信の髪塚

1492.JPG


「この度の籠城につき、手を砕き、比類無き働き見届け候段、尤もに感じ入り候也  
慶長五年八月二十三日  秀信(花押)」
と感状を家臣に与えたうえで 仏門に入ったと云われます。

そして、重臣の木造具政、百々綱家は池田輝正の配下となる事で許される等、
円清和尚の段取り通り事が運んだ様です。

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脇坂・小川・赤座・朽木 四氏の裏切り [番外編]

テレビ東京の歴史特番で 関ヶ原の戦いにて 西軍を敗北に至らしめた決定的な裏切りは、

小早川秀秋の裏切りでなく、脇坂・小川・赤座・朽木 四氏の裏切りである との論が

展開されていました。

石田三成や大谷吉継も、小早川の裏切りは予測しており 、険しい山道をの続く松尾山に誘い込んで

簡単に攻め下りる事が出来ない様にしたり、大谷の陣地では、小早川の陣地の方角に向けて

土塁が築かれていた と言うものです。従って、小早川隊を大谷を何度も山に押し戻しており、

脇坂・小川・赤座・朽木 の裏切りは、全く予想がしていなかった為、これにより西軍は大崩れしたと

言うのは、今回の新たな説でなく、今まで多く論じられてきたものです。

今回の番組では 家康でさえ 脇坂・小川・赤座・朽木 が裏切ると言う事は知らなかったとありますが、

小早川や吉川の裏切りと違って 情報が全く漏れていなかった事が決定的な打撃を与えた

要因となります。

脇坂・小川・赤座・朽木 の寝返りは、小早川の裏切りを見て 瞬時に判断して行われたものでなく、

事前に 藤堂高虎との間で話が出来たと言われています。

藤堂と脇坂、朽木は近江の出身で その繋がりにおいて 密かに話が進められていたのです。

藤堂が脇坂・小川・赤座・朽木 四隊に向けて、旗を振った時こそが その時 であったのです。

では、この四氏の裏切りの情報が 全く漏れていなかったのは、何故でしょうか?

脇坂安治こそ賤ヶ岳七本槍 の武将に名を連ねていると言え、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠

と共に 何れも2~3万石程度(小川のみ7万石)の小国の大名であり、それらがどちらについても 

大勢に影響を及ぼすものとは考えておられず、眼中になかったと言うのが本当の所であったと思われます。

家康にしても然り、藤堂から これらの小大名の動向の話があったとしても、高虎に任せると言う形になった筈で、

会うのは勿論、褒美などの約束もなされなかったので 家康の記憶になかったのでは無いかと思われます。

寝返りの直前に 家康にその旨の書状を送った と言われる 朽木元綱も 

「そなたの様な者が 寝返った所で 大差はない」と一笑されたとか。

辛うじて 首謀者とされる脇坂のみは、他の3氏と違い 家康に寝返りを宣言していた為、

合戦後の論功行賞にて 改易・減封を免れています。

小大名の悲しさでありますが、これらの 無力と思われ相手にされなかった 大名らが

手を組む事で 歴史を変えたのは とても興味深い事なのです。

ただ、この手柄は 藤堂高虎のものとなっただけですが・・・

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浅井三姉妹の 関ヶ原 ―お初の功績 [番外編]

丁度、大河ドラマ 『江~姫たちの戦国』にて、〝関ヶ原の戦い〟のシーンが終了して 石田三成が捕縛され 六条河原にて散って ひとつのヤマ場が終わりました。浅井三姉妹は それぞれの 関ヶ原を 戦い ました。

昨日、〝小谷城戦国歴史館〟を訪れた時、名人級の解説にて来館者を釘づけにしている案内の方も、「三姉妹の中で もっとも秀でており、男に生まれていたら 名を残していたであろう」と言われていたのが 次女 お初 でした。

お初には 子供が出来ませんでしたが 徳川秀忠と江の子を養女に迎え、夫高次と側室の子を結婚させたり、公家からも養子縁組をして存続を計った様です。後には、江と豊臣秀勝の娘の完子の子孫が天皇家と縁戚関係となります。 

「守護大名として唯一 京極家が明治維新まで続く 礎を作った点で 卓越した才を発揮した」と言うお話でした。

しかし、もうひとつ、京極家が存続したキーポイントは ずばり 〝関ヶ原の戦い〟での身の振り方です。

京極家は 浅井家以前の北近江の領主であり 守護大名として名家として知られておりましたが、父孝吉が足利義昭に仕えており 織田信長と対立した後に出家し、高次に至っては 明智光秀が本能寺の変を起こした際には、光秀方についてしまい、秀吉の長浜城を攻撃した為、美濃・若狭に逃れました。秀吉の側室となった姉龍子の助命嘆願により許され、秀吉に仕える事になりました。

この様に、京極家は 戦国の世にて 与する側の選択を誤り、没落の一途を辿っており、その後、龍子 のお蔭で 大名に復帰し 秀吉の養女となっていた お初のお蔭で、大津6万石まで加増された為、七光りによる〝蛍大名〟 と揶揄されました。

〝関ヶ原の戦い〟でも 京極家は当初 石田方についています。故秀吉の恩に報いる為と言う理由から仕方がなかったとはいえ、また 敗軍の将となる所だったのでした。

私は、京極高次が 家康方に寝返り、大津城に立て籠もったのは、お初の助言があったからではないか? もっと言えば、京極家存続・発展の為に そうさせたのだと考えています。

小山評定にて 豊臣恩顧の大名の多くが家康方に付き、岐阜城が落城した情報により 家康方が有利と判断したのは勿論、お初は次の様に判断したのではないのでしょうか?

① 三成方 について家康を攻撃しても、例え成功しても 多くの西軍大名の中で 名だたる功績を挙げれるかが 疑問であるのに対して、東に寝返って大津に籠城すれば 史実に見る様に 三成方に大きな痛手を与え、家康勝利に確実に大きな貢献ができるのです。世には、秀忠の遅参が言われますが、三成方の主戦派の毛利元長、戦国最強とも言われる無敗の武将立花宗茂が 大津城攻めに加わらざるを得なかった為、足止めされ 関ヶ原に間に合わなかったのです。

② 大坂の西の丸には、西軍の総大将毛利輝元が秀頼や淀殿の傍らにおり、状況によれば、秀頼公を奉じての参戦も致し方なくなります。そうなると、この戦は徳川と石田の私戦でなく、豊臣・徳川の争いとなります。大坂から関ヶ原に向かう時に 大津が敵に寝返ると秀頼公の身に危険が及ぶ事になり、淀殿は進軍させる事は敬遠し、大坂に留まる事が予想されます。これは、秀頼公を奉じて出陣する事で 一旦家康についた豊臣恩顧の大名を味方につけ様とする石田方 にとっては打撃となります。

また、豊臣・徳川の戦いを避ける事が出来、つまり、姉妹の戦いを避ける事になります。そして、たとえ徳川が勝利しても、秀頼公・姉 淀殿が処罰される事もなくなると考えられるのです。

この様に、夫の高次の出世・京極家の存続・繁栄を主眼に考えながら、姉や妹と直接戦わない方法を考えられるのは、それまでの高次の経歴を見る限り、お初 しか いないのではないかと思うのです。

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