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敗走 [関ケ原の合戦大阪の陣]

松尾山の小早川軍は、大谷吉継の陣をめがけてなだれ込んだ。
吉継は、秀秋の裏切りを予測していた為、その時に備えた陣形をしいていた。

その為、秀秋隊は、2度3度と押し返された。
その時、藤堂高虎の旗の合図と共に、脇坂安治、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱の四隊が一斉に、大谷隊に向かってきたのである。

これらの武将は、吉継の指揮下におかれ、松尾山の裏切りに備えて配置していた面々である。

さすがの大谷勢も、側面をつかれ、一気に戦況は悪化、主力の戸田重政、平塚為広も討たれ、壊滅状態に陥る。吉継は、混乱の中で自害。

大谷勢壊滅により、藤堂高虎、京極高知の部隊が矛先を小西隊、宇喜多隊に向けて押し寄せてくる。その勢いに押され、小西隊は、北国街道に敗走。

宇喜多隊と石田隊は、懸命に奮戦するが、敵軍に取り囲まれる状態になり、ついに潰滅。

南宮山からも、小早川の裏切りは遠望でき、西軍の戦況悪化の情報も伝えられてくる。

広家は、「やっと終わったな」と安堵の表情を浮かべた。

「これで、輝元殿も、毛利家も安泰であろう」

長政との約束を守り、南宮山から一兵たりとも山を下りさせなかった、その奇妙な戦いの成功に胸を撫で下ろし、南宮山を立ち去った。

主戦場では、島津隊が敵中突破を画策していた時、南宮山の各部隊は、それぞれの退却が行われていた。

吉川広家と福原弘俊は、家康軍に合流した。

対して、長束隊と長宗我部隊は、伊勢街道をめざして敗走している。

長束正家は、多芸口にて徳永寿昌、市橋長勝に攻められ、長宗我部盛親も、追撃を受け百十三名の将兵を失っている。

長宗我部盛親は、父元親の病死により、家督を継いで一年足らずにて、関ヶ原の選択を迫られ、毛利の大樹に寄り添う様な形で、南宮山のさらに南の栗原山の麓に陣を敷いていたが、主戦場から遠く離れているうえ、南宮山の様に眺望も効かず、戦況も把握できぬまま、敗戦の報を聞く事になる。

長束正家も、五奉行時代から、大老毛利輝元の連絡役を務める等、実務を通しての結びつきが強く、毛利の動向に合わせる形になったが、大阪を動かぬ輝元に対しての不安から、毛利の最後尾の布陣になっていたと思われる。

長束正家と長宗我部盛親は、この様に、毛利の動向を合わせる形で、〝不戦〟という結果になったが、毛利の事情と異なるところは、事前に家康に内応がなされておらず、戦わずして敗軍の将となり、逃走を余儀なくされたのである。

長束正家は、伊勢ルートを通り、居城水口城にたどり着いたが、家康方の池田長吉に攻められて自害をして果てている。

長宗我部盛親は、伊賀から大阪に入り、土佐浦戸にわたるというルートにて落ち延びた。

そして、井伊直政の仲介で家康に謝罪する為、大阪に向かう予定であったが、兄の津野親忠が藤堂と結んで東軍に通じており、戦後土佐半国を与えられる事になっている事を家臣から聞き、殺害していた事が家康の逆鱗に触れたのである。

井伊直政の取り成しにより、何とか死罪は免ぜられたものの、領国は没収され、盛親は牢人の身になったのである。

そして、安国寺恵瓊は、戦に敗れた今となっては、三成と謀り、毛利輝元を担ぎ出し、戦を企てた首謀者として犯罪人となっている。

毛利秀元は、輝元や毛利の安泰の為に、罪を全て一人で被る事になった恵瓊に同情して、陣所に匿った後、秀元率いる毛利本隊と共に、伊吹山中にに入らせ、佐和山近くにて密かに逃がしている。

恵瓊は、琵琶湖を渡り、坂本から山城国に入り、五十人余りの家臣と共に、大原に潜んだ後、鞍馬の月照院に隠れた。その後、一向宗門、端之坊に隠れたのち、彼が住持を務めていた東福寺に入ろうと輿に乗って夜逃したところ、六条辺りで奥平信昌の配下の者に捕えられた。

その時、恵瓊のもとには下人数名が残っていたのみであった様である。

その後、石田三成、小西行長と共に、六条河原で斬首され、首を晒された。

秀元は、決戦当日は南宮山に留まり、翌朝に南宮山を下り、伊吹山に入り、恵瓊を逃がした後、

佐和山城攻撃している東軍の横をすりぬけ、近江八幡に宿営した。秀元は、自軍が敗軍でないという自負のもと、伊勢街道の敗走ルートでなく、近江ルートを選択している。

翌日、瀬田の唐橋の手前に陣所に、福島正則と黒田長政が二人の陣所に赴く様に勧めてきた。

秀元は、陣所には赴くも、輝元の為に東軍に加わる要請は、きっぱりと拒絶し、「我、大阪の輝元の陣代なれば、速やかに大阪に引き上げるのみ」と言うと、長政の手を握ったまま陣外に退出したという。

秀元は、この様に、東軍に繋ぎ止められる事無く、近江ルートを貫き、淀から大阪に戻ったのである。

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南宮山と松尾山 [関ケ原の合戦大阪の陣]

毛利勢は、まず安国寺恵瓊に交渉に当たらせ、毛利輝元を西軍の大将として、西軍勝利の際には豊臣政権下において執権の座に就く腹づもりであった。

小山評定において、豊臣恩顧の大名のほとんどが、家康に付いた事、岐阜城が東軍の手により陥落した事、
五奉行の1人、増田長盛の家康内応文書、大津城の京極高次が東軍に寝返った事により、高次の妻・お初の姉である淀殿が秀頼の出陣を見合わせた事等により、西軍の旗色が悪くなると見るや、黒田長政、藤堂高虎と親交が深い吉川広家を内密に交渉に当たらせた。

そして、毛利の家康に反抗する事が無い旨を伝えたうえで、関ヶ原本戦を傍観する事を条件に、領国安堵・毛利安泰の血判書を取り交わしている。

この場合、毛利輝元を西軍の大将に担ぎ出した首謀者として安国寺恵瓊は一人で責任を負う事になる。
恵瓊は、長束正家と共に、南宮山の岡ヶ鼻に別働隊の最後尾として布陣していた。

長束正家は、豊臣政権下において、五奉行時代から、大老・毛利輝元の連絡役としての結びつきがあった為、毛利に同調する形で南宮山後備に陣を敷いたと思われるが、秀元に出陣の催促をするも、
大阪にて動く気配が感じられない輝元に不安を抱き、強硬に動く事はできなかった。

恵瓊も、三成挙兵当初は、前面に出て輝元を総大将にする事に積極的に動いたが、西軍不利の情報が色々と伝えられた事で、毛利の主導権を吉川広家に移して、東軍内応の方向で進められていた。

南宮山において、広家を先鋒に、恵瓊を最後尾に布陣させた時点で、毛利軍のその動向は戦前より想像し得るものであった。毛利の方針が変わった以上、恵瓊としては、秀元に出陣催促をするも、強行突破はできず、
傍観せざるを得なかったのである。

実際、大谷吉継は、南宮山の布陣を見た時、毛利の内応を察知していた様である。
三成も、兵馬の上り下りもままならない急峻な山への布陣に疑念を持っていた様である。

南宮山に何の動きもないのを見て取った家康は、本陣を前に進め、南宮山に備えていた後衛部隊、池田輝政・
山内一豊・浅野幸長・有馬豊氏の陣を前に出させている。
この、後衛部隊の顔ぶれを見ても、娘婿の池田輝政や律儀な山内一豊を配している等、家康も、最初は
南宮山の内応を確信してはいなかったと推測できるが、石田陣所からの参戦の合図の狼煙にも、動かぬ
事に安心したのであろう。

松尾山においても、小早川勢が、南宮山の動かぬ状況と本陣・後衛部隊の前進する模様が遠望でき、毛利勢の家康内応を確信しつつあった。
その時、家康軍と思われる旗印が松尾山麓に向って来て、山に向けて射撃しているような硝煙が確認できた。

秀秋は驚いたというよりは、毛利勢の内応を確信して、毛利の一員として、家康に付いて行動を起こす踏ん切りがついた時にタイミングよく、催促ともいえる合図がなされた格好になったのである。

「家康殿にお味方する。目指すは、大谷吉継の陣なり」
秀秋の声が響いた。

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南宮山動かず その2 [関ケ原の合戦大阪の陣]

松尾山の小早川勢も、吉川広家が家康に内応して、毛利を動かさない約束をしている情報は、黒田長政から聞かされている。
しかし、毛利秀元が同じ南宮山の背後に陣取っている、安国寺恵瓊や長束正家に説得されて山を下れば、
さすがの広家も止められないというケースも考えられる。

安国寺恵瓊や長束正家は、もし、毛利が中立を保って家康が勝利した時、自身の命が危うくなる立場にある為、必死の説得をすると考えられる。

実際、吉川広家は不戦を貫くという奇妙な戦いを強いられる。広家自体は、小早川秀秋が松尾山を下りて家康と戦う事態になった場合以外は、南宮山から兵を下りさせないつもりでいた。

合戦開始から激しい戦いが繰り広げられ、宇喜多隊・大谷隊・石田隊・小西隊の活躍でやや西軍が押し気味で戦いを進めている。機が熟したとばかりに、石田三成が陣をしく笹尾山から狼煙があげられたのが確認できた。

狼煙の合図に、毛利宗家の軍を率いる毛利秀元は腰を上げて戦闘態勢に入ろうとしていた。
安国寺恵瓊、長束正家からも使者を通して再三に亘る出陣の要請が来ている。
秀元が先鋒の吉川広家に出陣の催促をするも、「出陣の判断はお任せあれ」と言って首を縦に振らない。

広家にとって、出陣の機が熟す時とは、秀秋が家康に向かって山を下りた時しか考えられない。
それ以外は、毛利の長老として、毛利の存続を図る為、一兵たりとも動かさぬようにするのが
任と心得ているのである。

秀元は、安国寺恵瓊、長束正家からの使者に、「今、弁当を使わせている」という、俗に「から弁当」いわれている苦し紛れの言い訳をしていたといわれるが、さすがに立ち行かなくなり、自らも広家や福原弘俊の陣所に催促に赴いている。その時、弘俊から、事のいきさつを聞かされて愕然とする。

秀元は、剛勇で名を馳せた真直ぐな性格の若者であったと言われており、戦意は充分に持って布陣していたのである。実は、秀元は知行地をめぐり広家とは対立していた事もあり、強権発動して山を下りる事も考えられなくはなかったのであるが、大阪の輝元からは、「広家に従って、毛利家の為 尽くすように」と言われていた為、強行突破して動く事はなかったのである。

安国寺恵瓊も長束正家も、毛利本隊が動かない事には、どうする事も出来ず、催足を繰り返すしかなかった。

松尾山からは、関ヶ原の盆地を挟んだ東の端に、南宮山を望む事ができた。山を埋め尽くしている戦旗は、戦局や陣営の動きを知る事ができる。
しかし、使者が動くと思われる位のわずかな動きの他には、大きな動きは見られない。

「やはり侍従殿は、動かないつもりのようであるな」と、秀秋は、ほっとしたように側近の平岡頼勝と稲葉正成に
言った。毛利の宗家も、黒田長政が仕組んだ東軍への内応の手筈通りの傍観に徹しているようである。

秀秋も、家臣たちも、腹は家康に味方することに決まっていたが、裏切りという行為に踏み切る後ろめたさが、山を下りるのを踏みとどまらせていたから、この毛利の行動は心強く感じられたのである。

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南宮山動かず その1 [関ケ原の合戦大阪の陣]

まず、関ヶ原の合戦当日の 毛利軍の動をみていく。

大将 毛利輝元は大阪城西の丸にて秀頼公のもとを動かず、毛利元康(元就八男) と
小早川元包(元就九男)は、前日まで家康方に寝返った 大津城包囲攻撃にて足止めされている。

そのほかの武将は関ヶ原本戦に陣取りをしていた。
毛利軍は、関ヶ原の東西の両端の松尾山、南宮山に陣取りをしている。

松尾山には小早川秀秋の一万五千、南宮山山頂には、毛利秀元の一万二千、
その後備に安国寺恵瓊の千八百、南宮山の前方の山麓には、吉川広家の三千三百が陣取っている。


どちらからも、関ヶ原の盆地が一望できるロケーションにあるが、戦うには山を下りる必要があり、かなり不便な場所である。

この南宮山には、五奉行の一人である長束正家千五百、南宮山のさらに南の栗原山麓に長宗我部盛親の
六千六百も陣を構えている。

関ヶ原の本戦は、結果的に、この毛利勢の動向が勝利を決したのであるが、実は、この陣取りをした時点で、
徳川の勝利は決まっていたといえる。

私がそう思うのは、キーマンとなった小早川秀秋と吉川広家の立場に立って考えた時、そう考えざるを得ないからです。

小早川秀秋は、色々な事情から徳川側に寝返る約束を取り付けていていた訳だが、もし、西軍として山を下りるとしたなら、圧倒的な有利を確信できた時のみ、つまり、南宮山の吉川・毛利が西軍として山を下りて
家康軍と戦った時のみと思われる。

逆に、毛利隊を動かさず、毛利不戦を条件に本領安堵の約束を取り付けている吉川広家は、万が一、西軍として山を下りて家康軍と戦うとしたなら、圧倒的な有利を確信できた時のみ、つまり、松尾山の小早川秀秋が山を下りて家康に刃を向けた時のみと思われる。


吉川広家も、目的は毛利の存続・所領の現状維持であるので、その万が一の時の為に、傍観軍として
南宮山に陣取りをしていたものと思われる。

 200-P3220060吉川広家陣跡.JPG



秀秋は、元々 三成に朝鮮の役の失態を咎められ、減封・転封された時、家康がとりなして旧領に復帰できた経緯、黒田長政が内応の約束を取りつけている事の他にも、伯母であり、育ての親である北政所から、家康についていく様にきつく言われた事情を知っており、十中八九家康に付くと思ってはいたが、その若さ故、好条件を提示しての三成の誘いに心を動かされることも否定できなかった事情があった。

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毛利のお家事情 [関ケ原の合戦大阪の陣]

毛利家には三枚のカードがある。
毛利輝元・安国寺恵瓊・吉川広家である。
毛利元就の頃には、毛利宗家を小早川・吉川の 毛利両川 が支えたが、小早川秀秋は、豊臣秀吉の養子であったが、側室淀君がお拾いを産んだため、小早川家に半ば押し付ける形で養子に出された経緯で、毛利との
繋がりは薄い。
実は、小早川隆景に実子がなく、元就の九男・元総を小早川秀包を養子としていたが、秀秋が小早川に入った事により、養家を出されている。

毛利家の内情としては、安国寺恵瓊と吉川広家は、犬猿の仲で一枚岩にはなっていなかったが、輝元を支え
毛利を盛り立てようという心意気は双方共に持っていたと思える。

安国寺恵瓊は、毛利の使僧として羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に講和成立に働いた事にはじまり、常に豊臣と毛利の間をとりなしたことにより秀吉の信任をえており、石田三成とも親しかった。
朝鮮出兵の際、豊臣の奉行として参加して、吉川広家の抜け駆けの功名を非難して秀吉に報告しなかった事より険悪な関係となった。

逆に、広家は、文禄の役の際に、福島正則、黒田長政、加藤清正らの武断派と親しくなり、特に黒田父子とは
入魂の仲であった。
吉川氏は、元春の時、秀吉に五大老に抜擢された小早川隆景に対抗意識を持ち、以後も反りが合わず、特に隆景と親しい恵瓊を目の敵にしてきている。

毛利が三成派と家康派に分かれていたという事は、逆にいうと、どちらにも太いパイプを持っている事になる。
毛利は、先ず1枚目のカード〝安国寺恵瓊〟を切って、石田三成・大谷吉継と謀り、毛利輝元を西軍の総大将
として大阪城に入城させた。

そして、豊臣恩顧の大名の殆んどが徳川方に就いたという情報が入り、黒田長政を通して徳川と内通すべく
吉川広家という2枚目のカードを切る事になる。

そして、関ヶ原の戦い前日、毛利家家老、福原広俊と相談の上、人質2人を戦闘不参加の書状と共に長政に
送り、輝元の無罪と領国を保証する盟約をとりつける。

勿論、「輝元は、家康に刃向う気も天下を望む気もなく、恵瓊に担がれただけ」というのは、苦し紛れの弁明で
あり、大阪入城当時は、天下とまではいかずとも、豊臣政権下で実権を握る野望は持っていたと思われる。

しかし、2枚目のカードを切った事で、3枚目は切られる事無く、〝大阪城にて、ただ秀頼公をお守りする〟と
いう形で、関ヶ原合戦を迎える事となる。

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関ヶ原の戦い―東・西どちらにつくか その1 [関ケ原の合戦大阪の陣]

 竜馬伝をみていると、
〝討幕により今までの身分制度を壊し、新しい世の中をつくる〟という人々と、
〝今の保証された身分を堅持したい〟という、現状維持派の心中が良く描かれていて
とても興味深かった。

 関ヶ原の戦いも、能力のある者がのし上がれる、自由な世の中を信長・秀吉路線を継承していく
『三成派』と、 戦国の世を終わらせて、安定した世の中をつくろうという『家康派』の戦いであったはずである。

しかし、徳川家康により、徳川と石田の私戦にすり替えられ、戦によって功をたてて、武力に
よって地位を築いてきた、政治力より武力重視の〝武断派〟を味方に引きずり込んだのである。

ましてや、彼らは、豊臣恩顧の大名で、家康方には本来つくはずがない面々である。

 関ヶ原の戦いは東・西どちらにつくかの、究極の選択であり、お家の存続に係るものである。
戦後にそれぞれの大名家がどうなったかという事実をみると、
その選択がいかに厳しいものであったかが解る。

 そのなかで、豊臣政権下で、家康に次ぐ大大名である毛利家もその選択をせまられていた。
そして、毛利輝元は西軍の総大将となる。
毛利は、中国の覇者としての現状維持を図りたいというのが、目標であったと思う。

家康について、勝利を勝ち取っても、二番手どころか目の上の瘤となり、前田・上杉のように、
難癖をつけられて失脚するのは目に見えており、小大名である石田について、その後の政権の
要職に就き、実権をにぎり、力を揮うことを選択したと思われる。
担がれて総大将になったといわれるが、毛利が今の地位を維持できるのは、この選択しか
なかったのかも知れない。

しかし、小山評定にて、豊臣恩顧の大名をはじめ、上杉征伐に赴いたほとんどの大名が、東軍に
つくことを表明する。
これにより、江戸より東海道のほとんどの大名が東軍となり、家康の進軍は極めて楽になった。

そして、西軍の織田秀信の居城である岐阜城がわずか数日で陥落。
信長が要塞とした、名城を攻略した事で、流れは一気に東軍に傾いた。

そこで、毛利は思い切った策に出る事になる。

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竜馬伝 と江 姫たちの戦国~ [関ケ原の合戦大阪の陣]

竜馬伝が終了して、来年は、『江 ~姫たちの戦国~』 が始まるらしい。
タイトルから察するに、お市の方の娘、浅井三姉妹の物語でろうが、
時代を超えて竜馬の時代に繋がっている。

キーワードは〝関ヶ原の戦い〟

竜馬をはじめとする討幕に動き、新しい日本を造ろうとした人たち・・を生んだ
所謂、薩・長・土・肥は、関ヶ原の戦いにて西軍について、所領を没収または減封されたり、
斬首にあった大名の領土であったところである。  ※薩摩は例外的に本領安堵
一旦は所領安堵を約束されたものの反故された、毛利をはじめとして、関ヶ原の戦いの
残した遺恨の念は、何百年もくすぶっていた訳である。

竜馬伝に出てきた、下士という人達は、関ヶ原以前に土佐の領主であった
長宗我部氏の家臣が多く、山内家の家臣である上士に虐げられていたのは、ドラマの如くである。


浅井三姉妹― 長女 茶々は秀吉の側室となり、豊臣の跡取りとなる秀頼を産む。
          次女 初は京極高次の妻となる。
          三女 江は二度の結婚・離別ののち、徳川秀忠の妻となる。

関ヶ原の戦いの時三姉妹は・・・

  茶々は、淀殿として、大阪城にて幼い秀頼の傍らにいて、豊臣の天下を脅かす徳川家康を
  西軍が滅ぼす事を願っていたはずである。
 
  江は、関ヶ原の戦い の数年前に、秀忠と結婚。
  秀忠は、信濃上田城の真田昌幸・幸村父子の抵抗に合い足止めされた事により、遅参する。

  問題は、初の嫁いだ京極高次である。

 高次は、三成挙兵後に、大谷吉継らと同行し、西軍に従っていたが、途中で居城である大津城に
 立て籠もり、西軍を大津で足止めした。高次に徳川の味方をするように助言したのは、
 お初であったと言われる。

 動向不明瞭な毛利家にあって随一の主戦派であった毛利元康や名将として知られた立花宗茂の
 一万五千の西軍を決戦の当日まで引き留めた。
 もし、この軍が 関ヶ原本戦 に間に合えば、家康は相当苦戦させられたであろう。

 更に、大阪城の秀頼の許にいた淀殿のショックは大きかったであろう。
 妹婿にあたる 高次が寝返った事の精神的ダメージに加え、関ヶ原への
 行く手が阻まれた事で、勝利への〝切り札〟である秀頼を出陣させられなくなり、西軍の総大将・
 毛利輝元も秀頼をお守りする事に徹せざるを得なくなったのである。

 輝元が秀頼を従えて出陣しておれば、秀忠率いる徳川本隊が遅参し、豊臣恩顧の大名で戦わざる
 を得なかった 東軍は、福島正則、加藤嘉明などは、西軍に槍を向ける事は出来ず、その結束は
 乱れたと思われる。

つまり、この時点で、家康軍の勝利は、グッと近づいたのである!

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